2010/01/31 (Sun) 同じ時代の
恵比寿の写真美術館に行きました。今回のお目当ては、いま生きている、新進の写真家さん6人が撮った「旅」の展示。展覧会だけではなく、トークショーにも足を運んでみました。トークショーは初めてでしたが、お話を聞く前と聞いた後で写真の見え方というか、見る深度が変わって、おもしろかったです。同じ日に木村伊兵衛/ブレッソン展も見たけれど、木村さんにはもう、直接お話をきくことができない。同じ時代に生まれ、生きているという幸運。
以下、トークショーでお話をきけた3人の写真家さんたちについてメモ。
□出発―6人のアーティストによる旅/東京都写真美術館
■石川 直樹さん
1977年 東京生まれ。展示作は富士山。…といって思い浮かぶような「三角形の山が遠くに悠然とそびえていて、夕陽が照り映えている」という写真は1枚もない。彼の写真の富士山は、ごつごつと黒い山肌をさらしている。麓の町の火祭り、樹海に生える草、誰もいない斜面、白く骨のように立つ鳥居、きりたった崖。山とおなじ三角形に展示された作品群は山頂に近づくほど厳しさを増していく。「絵葉書や浮世絵のような富士山は撮りたくない」とヘリコプターを寄せたり、離れたりしながら単焦点レンズで撮っている彼の写真は「自分が見たままがうつらないのが面白い」のだそう。
■百々 武さん
1977年大阪府生まれ。日本の島々に着目している。北海道の雪嵐の中"ナマ脚”で歩く女子高生、沖縄の畑で腰を下ろす男性、彼の撮る島の風景には、必ず人がいる。「人しか撮りたくない」という彼は、でも、撮った写真を自分がそのとき、その場所にいたことを示す「自分ドキュメンタリー」でもあるといっていた。ときには畑の中で何時間も雑談してから、ときには銭湯の中で自分も裸のまま撮っている写真が、単なる他者の記録であるはずはない。
■内藤 さゆりさん
1978年広島県生まれ。展示作はポルトガルの風景。日本にとっての最初の西洋だったポルトガルがいまも長崎出島の印象のままなのを不思議に感じ、新婚旅行に旦那さまをほったらかしにし、いまのポルトガルを撮ったそう。光と色彩に溢れた写真は、そこにあった現実の風景というより、「私にはこう見えた」という彼女なりの真実の風景。正方形の写真を撮る理由は「時間はどんどん過ぎていくから、縦か横かを悩みたくない」。ふんわりした写真は、ふんわりしたきもちからではなく、ふんわりした写真を撮るという固い意志から生まれているのかもしれない。
写真は公園のミツマタ。

以下、トークショーでお話をきけた3人の写真家さんたちについてメモ。
□出発―6人のアーティストによる旅/東京都写真美術館
■石川 直樹さん
1977年 東京生まれ。展示作は富士山。…といって思い浮かぶような「三角形の山が遠くに悠然とそびえていて、夕陽が照り映えている」という写真は1枚もない。彼の写真の富士山は、ごつごつと黒い山肌をさらしている。麓の町の火祭り、樹海に生える草、誰もいない斜面、白く骨のように立つ鳥居、きりたった崖。山とおなじ三角形に展示された作品群は山頂に近づくほど厳しさを増していく。「絵葉書や浮世絵のような富士山は撮りたくない」とヘリコプターを寄せたり、離れたりしながら単焦点レンズで撮っている彼の写真は「自分が見たままがうつらないのが面白い」のだそう。
■百々 武さん
1977年大阪府生まれ。日本の島々に着目している。北海道の雪嵐の中"ナマ脚”で歩く女子高生、沖縄の畑で腰を下ろす男性、彼の撮る島の風景には、必ず人がいる。「人しか撮りたくない」という彼は、でも、撮った写真を自分がそのとき、その場所にいたことを示す「自分ドキュメンタリー」でもあるといっていた。ときには畑の中で何時間も雑談してから、ときには銭湯の中で自分も裸のまま撮っている写真が、単なる他者の記録であるはずはない。
■内藤 さゆりさん
1978年広島県生まれ。展示作はポルトガルの風景。日本にとっての最初の西洋だったポルトガルがいまも長崎出島の印象のままなのを不思議に感じ、新婚旅行に旦那さまをほったらかしにし、いまのポルトガルを撮ったそう。光と色彩に溢れた写真は、そこにあった現実の風景というより、「私にはこう見えた」という彼女なりの真実の風景。正方形の写真を撮る理由は「時間はどんどん過ぎていくから、縦か横かを悩みたくない」。ふんわりした写真は、ふんわりしたきもちからではなく、ふんわりした写真を撮るという固い意志から生まれているのかもしれない。
写真は公園のミツマタ。

2010/01/30 (Sat) あわせ鏡
写真展「あわせ鏡」にいってきました。ドコモビルが遠くに見える四谷二丁目のギャラリー。しかくいお部屋の4つの壁に、マスナリジュンさん、黒耳 堂さん、(ク)ニヒトさん、朝弘佳央理さんの写真が、ひびきあうように展示されていました。以下、作家さん別に簡単にメモ。(的外れだったらごめんなさい)
■マスナリジュンさん
その日、そのときに、たまたま新宿を通りがかったひとたちのポートレイト作品。初対面だとは信じられないくらい、みんな、そのひとらしく撮られている。アートは悲しくややこしく不愉快なほうが高尚だと考えられがち。でも、命を敬意をもって撮ることのほうが、ほんとうは難しいのだとおもう。ひとが生きている一瞬をうつす鏡。それは撮影者をうつす鏡でもあり、みるひとをうつす鏡。
■黒耳 堂さん
展示作品に写っている植物たちを「野良植物」と、黒耳さんは仰った。彼らは石でいえばエメラルドやサファイアではない。それでも写真の中の彼らは力強く、美しく、生命力を感じさせて、うっかりしていたら翡翠や瑪瑙になりそう。街で生きている植物たちの一瞬をうつす鏡。
■(ク)ニヒトさん
本を読む奥さまを撮った連作。『これでよろしくて?』というタイトルの本を読む奥さまの写真は「”これでどうだ”くらいのきもちで撮ったんですよ」と (ク)ニヒトさんはお話してくださったけれど、写真の前にいると、(ク)ニヒトさんの奥さまの声が聞こえるー「これでよろしくて?」。(ク)ニヒトさんが投げかけ、奥さまが投げ返し、それがカメラの記憶へ。そしてその投げかけは、みているひとへも。
■朝弘 佳央理さん
他の3人が比較的おおきな作品を展示されている中、おおきい写真、ちいさめの写真を交えての展示。配置は色や題材ではなく、感触で決めたそう。離れてみると楽譜のようで音がきこえた。ピアノか、オルガンか、笙のような。記憶のように重なり合い、音楽のように反響し、共鳴する合わせ鏡。
□□□
今回の展示に足を運んだひとつのきっかけは、昨年6月、ブログ『坂のある非風景』の「妥協なき苦痛、妥協の苦痛、苦痛なき妥協」という記事。この中で「hanabi daysとアマヤドリはそっくりである。双子でなければ姉妹に違いない」と並んで紹介されていた”双子”さんが、朝弘さんです。お会いしたこともお話したこともない方、”双子”とみていただくのが畏れ多いような方でしたが、きょうお話したらふしぎに懐かしくて、どきどきしました。すぐに帰りの電車に乗れなかったくらい。
もうひとつのきっかけは、(ク)ニヒトさん。flickrで公開されている毛糸球やスツールの穏やかな写真がすきで、何年も前からコンタクト登録をさせていただいていました。朝弘さんのブログ「アマヤドリ」から写真展へのリンクを辿り、(ク)ニヒトさんを見つけたとき、つながっているなぁ、とおもいました。
そもそもこの写真展も、マスナリジュンさんがTwitterで呼びかけて実現したものだそうです。あわせ鏡にうつる無限像のように、ひとやものや、きもちがつながって、広がっていく感覚。…いきているって、こういうことなのかもしれない、ね。写真は私なりの、野良植物。

■マスナリジュンさん
その日、そのときに、たまたま新宿を通りがかったひとたちのポートレイト作品。初対面だとは信じられないくらい、みんな、そのひとらしく撮られている。アートは悲しくややこしく不愉快なほうが高尚だと考えられがち。でも、命を敬意をもって撮ることのほうが、ほんとうは難しいのだとおもう。ひとが生きている一瞬をうつす鏡。それは撮影者をうつす鏡でもあり、みるひとをうつす鏡。
■黒耳 堂さん
展示作品に写っている植物たちを「野良植物」と、黒耳さんは仰った。彼らは石でいえばエメラルドやサファイアではない。それでも写真の中の彼らは力強く、美しく、生命力を感じさせて、うっかりしていたら翡翠や瑪瑙になりそう。街で生きている植物たちの一瞬をうつす鏡。
■(ク)ニヒトさん
本を読む奥さまを撮った連作。『これでよろしくて?』というタイトルの本を読む奥さまの写真は「”これでどうだ”くらいのきもちで撮ったんですよ」と (ク)ニヒトさんはお話してくださったけれど、写真の前にいると、(ク)ニヒトさんの奥さまの声が聞こえるー「これでよろしくて?」。(ク)ニヒトさんが投げかけ、奥さまが投げ返し、それがカメラの記憶へ。そしてその投げかけは、みているひとへも。
■朝弘 佳央理さん
他の3人が比較的おおきな作品を展示されている中、おおきい写真、ちいさめの写真を交えての展示。配置は色や題材ではなく、感触で決めたそう。離れてみると楽譜のようで音がきこえた。ピアノか、オルガンか、笙のような。記憶のように重なり合い、音楽のように反響し、共鳴する合わせ鏡。
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今回の展示に足を運んだひとつのきっかけは、昨年6月、ブログ『坂のある非風景』の「妥協なき苦痛、妥協の苦痛、苦痛なき妥協」という記事。この中で「hanabi daysとアマヤドリはそっくりである。双子でなければ姉妹に違いない」と並んで紹介されていた”双子”さんが、朝弘さんです。お会いしたこともお話したこともない方、”双子”とみていただくのが畏れ多いような方でしたが、きょうお話したらふしぎに懐かしくて、どきどきしました。すぐに帰りの電車に乗れなかったくらい。
もうひとつのきっかけは、(ク)ニヒトさん。flickrで公開されている毛糸球やスツールの穏やかな写真がすきで、何年も前からコンタクト登録をさせていただいていました。朝弘さんのブログ「アマヤドリ」から写真展へのリンクを辿り、(ク)ニヒトさんを見つけたとき、つながっているなぁ、とおもいました。
そもそもこの写真展も、マスナリジュンさんがTwitterで呼びかけて実現したものだそうです。あわせ鏡にうつる無限像のように、ひとやものや、きもちがつながって、広がっていく感覚。…いきているって、こういうことなのかもしれない、ね。写真は私なりの、野良植物。

2010/01/25 (Mon) 足跡
めずらしく暗めの色調の写真を撮ってflickrにアップロードしたら、「はなびさんにはダークな側面はあるのですか」というコメントをいただきました。半年から1年に1回くらいは、誰かにこんなことをいわれている気がします。彼らが「ダークな側面」とか「負の感情」と呼ぶものが、私が「負」とおもっているものと同じなのか、「ふつう」と比べて多いのか少ないのかはわかりませんが、私も、それなりに怒ったり、疲れたり、哀しんだりしています。
私の文章やふだんのことばから「負」があまり感じられないなら、それは、私が「負」をことばにするのがあまりすきではないから。だってね、そのとき嫌な思いをするだけでも十分嫌なのに、言葉にしようとしたら、思い出さないといけないでしょう?大切なひとといるしあわせな時間に、思い出したくないでしょう?ましてやブログの文章に残したりしたら、ブログを開くたびに、思い出すでしょう?私はわざわざ何回も嫌なことを追体験することはないと考えています。そのかわり、しあわせなこと、たのしいことは、忘れないように書き残して、何回も、何回も、感謝したいとおもっています。それが、私の文章や写真が「明」のほうに傾きがちな理由です。
でも、ちょっと実験をしてみようと思い立ちました。これからしばらくTwitterで、なるべく短めの間隔で、かんじたこと、おもったことを、呟いてみようとおもいます。hanabi daysが記憶の宝石箱だとしたら、Twitterは喜怒哀楽のあしあと。とりあえず1ヶ月間くらい呟き、納得したらそのまま続けるなり、他の使い道を考えるなり、してみる予定です。迷っていた背中を押してくださったKENTARROWさんに感謝。写真は光の足跡。
hanabi__ at Twitter

私の文章やふだんのことばから「負」があまり感じられないなら、それは、私が「負」をことばにするのがあまりすきではないから。だってね、そのとき嫌な思いをするだけでも十分嫌なのに、言葉にしようとしたら、思い出さないといけないでしょう?大切なひとといるしあわせな時間に、思い出したくないでしょう?ましてやブログの文章に残したりしたら、ブログを開くたびに、思い出すでしょう?私はわざわざ何回も嫌なことを追体験することはないと考えています。そのかわり、しあわせなこと、たのしいことは、忘れないように書き残して、何回も、何回も、感謝したいとおもっています。それが、私の文章や写真が「明」のほうに傾きがちな理由です。
でも、ちょっと実験をしてみようと思い立ちました。これからしばらくTwitterで、なるべく短めの間隔で、かんじたこと、おもったことを、呟いてみようとおもいます。hanabi daysが記憶の宝石箱だとしたら、Twitterは喜怒哀楽のあしあと。とりあえず1ヶ月間くらい呟き、納得したらそのまま続けるなり、他の使い道を考えるなり、してみる予定です。迷っていた背中を押してくださったKENTARROWさんに感謝。写真は光の足跡。
hanabi__ at Twitter

2010/01/19 (Tue) 『「R25」のつくりかた』
例えば、企業不祥事などの事件が起きたとして、株価が上がったか下がったかなど、起こった事象については意外に知っています。ところが、どうしてそれが起こったのか、どうしてそれがこれだけメディアで騒がれているのかが分からない。全体を俯瞰して見る見識が足りない。だから、深い知識になっていかず、消化不良感がものすごく残る。それを彼らは自覚していました。ただ、どうすればいいのかは、わかっていなかった。ということは、ニュースの消化不良感を取り除く、胃薬のような情報を提供してあげればいいのではないか。M1層が「自分たちに向けてくれている」と感じる書き方で、新聞を読み解くための基礎情報を提供すればいいのではないか。
―藤井大輔『「R25」のつくりかた』
子どものころ、お子様ランチが苦手でした。おいしくないし、子どもみたいだから。小さな子どもにブラックコーヒーやワサビを無理矢理たべさせるのは、もちろん正しくない。でも、「子どもならこんなのがすきだよね」「子どもにはこれをたべさせておけばいいや」と、とりあえずお子様ランチをあてがっておくのも、同じくらいおかしいような気がします。ほんとうにおいしいもの、いいものは、子どもも分かるはず。子どもがたべものを受けつけないなら、それはたべもののせいでも、子どものせいでもなく、そのたべものを子どもがおいしくたべられるようにお料理していない大人の責任だとおもうのです。
それは、メディアの世界でも、たぶん同じこと。ワカモノは新聞を読まないと大人はいいます。でも、それは新聞がワカモノでも読めるようになっていないから。大人が新聞をブラックコーヒーにしてしまっているからです。その一方で、TVや雑誌には、ワカモノはこういう情報がほしいんでしょとばかりに、エンターテインメントが溢れ返っています。でも、それは見た目は楽しげでも、ただあてがわれ、ただそこで消費されるだけの、お子様ランチのようなものでしかない。
それなら、これから本格的に大人にならなきゃいけない、でもコーヒーをブラックで飲めないひとは、どうすればいいのか。『「R25」のつくりかた』は、新規ビジネスの企画・運営のノウハウ本ではありません。この本に書かれているのは、R25世代が大人が口にするものをそのまま呑み下せないのだという理解、それでもたべたいのだという発見、そしておいしくたべてもらうための工夫。コミュニケーションの根っこだとおもいました。
「R25」はM1層(20〜34歳男性)を想定したメディウムですが、こんなに情報が溢れている時代に、「ブラックコーヒーって苦いよね」とおもいながら平気なフリをしている大人はM1層だけじゃないはず。伝えるということをお仕事にしているひとりとして、気合い入りました。今年は「R25」より「L25」がたのしいとおもえる女子として生きようと固く決意したはずなのですが、お仕事のアイディアがいろいろ浮かんできて、ビジネス書ばかり読んでいます。誰か止めて、あ、でもたのしいからもうちょっと経ってから止めて、ね。写真は夜のゼラニウム。

―藤井大輔『「R25」のつくりかた』
子どものころ、お子様ランチが苦手でした。おいしくないし、子どもみたいだから。小さな子どもにブラックコーヒーやワサビを無理矢理たべさせるのは、もちろん正しくない。でも、「子どもならこんなのがすきだよね」「子どもにはこれをたべさせておけばいいや」と、とりあえずお子様ランチをあてがっておくのも、同じくらいおかしいような気がします。ほんとうにおいしいもの、いいものは、子どもも分かるはず。子どもがたべものを受けつけないなら、それはたべもののせいでも、子どものせいでもなく、そのたべものを子どもがおいしくたべられるようにお料理していない大人の責任だとおもうのです。
それは、メディアの世界でも、たぶん同じこと。ワカモノは新聞を読まないと大人はいいます。でも、それは新聞がワカモノでも読めるようになっていないから。大人が新聞をブラックコーヒーにしてしまっているからです。その一方で、TVや雑誌には、ワカモノはこういう情報がほしいんでしょとばかりに、エンターテインメントが溢れ返っています。でも、それは見た目は楽しげでも、ただあてがわれ、ただそこで消費されるだけの、お子様ランチのようなものでしかない。
それなら、これから本格的に大人にならなきゃいけない、でもコーヒーをブラックで飲めないひとは、どうすればいいのか。『「R25」のつくりかた』は、新規ビジネスの企画・運営のノウハウ本ではありません。この本に書かれているのは、R25世代が大人が口にするものをそのまま呑み下せないのだという理解、それでもたべたいのだという発見、そしておいしくたべてもらうための工夫。コミュニケーションの根っこだとおもいました。
「R25」はM1層(20〜34歳男性)を想定したメディウムですが、こんなに情報が溢れている時代に、「ブラックコーヒーって苦いよね」とおもいながら平気なフリをしている大人はM1層だけじゃないはず。伝えるということをお仕事にしているひとりとして、気合い入りました。今年は「R25」より「L25」がたのしいとおもえる女子として生きようと固く決意したはずなのですが、お仕事のアイディアがいろいろ浮かんできて、ビジネス書ばかり読んでいます。誰か止めて、あ、でもたのしいからもうちょっと経ってから止めて、ね。写真は夜のゼラニウム。

2010/01/17 (Sun) 15歳
1月17日は阪神淡路大震災の日、でも、私の家族にとっては、大切な記念日です。
1月17日はトフィーの誕生日。トフィーの写真の前に、お花を飾りました。
もうしばらく会えないけれど、トフィーが生まれてきてくれて、私はとてもしあわせでした。
いま思い出しても、いっしょにおやつをたべたこと、お散歩のとき大冒険していっしょに
迷子になったこと、ボールの投げっこをしたこと、大きな犬から私を守ろうとしてくれたこと、
たのしくて、たのしいことしか、思い出しません。トフィーはいまでも、私のたからもの。
16年目もよろしくね、ありがとう。

1月17日はトフィーの誕生日。トフィーの写真の前に、お花を飾りました。
もうしばらく会えないけれど、トフィーが生まれてきてくれて、私はとてもしあわせでした。
いま思い出しても、いっしょにおやつをたべたこと、お散歩のとき大冒険していっしょに
迷子になったこと、ボールの投げっこをしたこと、大きな犬から私を守ろうとしてくれたこと、
たのしくて、たのしいことしか、思い出しません。トフィーはいまでも、私のたからもの。
16年目もよろしくね、ありがとう。

