2010/09/24 (Fri) かけがえのあるひと

もし、自分の名刺を目の前で折られたり破られたりしたら、どんな気持ちになるでしょうか。まるで自分を否定されたかのように感じ、怒りさえ生まれてくるはずです。また、何かの間違いで、自分の籍や名前が無くなっていたとしたら、自分の存在が無いかのように社会は扱うはずですし、自分自身も自分の存在について希薄さを感じたり、逆にある種の自由さすら感じることが予想されます。
―佐藤雅彦/展覧会“これも自分と認めざるをえない”企画概要
じぶんが自分でいることが、ここのところたまらなく窮屈だった。からだが女性であることの煩わしさ、両親の娘であることの責任、手帳を埋め尽くしていく仕事。原油に濡れた水鳥のように、毎日に絡め取られていた。
このままでは潰れる。上司に休暇を申し出て、六本木に向かった。無機質なコンクリートの壁と床。指先を台の上にのせた。大学のフォト・ラボにあったライトボックスのような光の箱の中に、私の人差し指の指紋が、おたまじゃくしのように泳いでいった。
六本木から日比谷線で恵比寿へ。オノデラユキさんの写真展を観たあと、恵比寿ガーデンプレイスのベンチに座って、風に吹かれた。平日の恵比寿は人の気配が遠い。すごくひとりだ、とおもった。通りすぎるひとのうち誰も、私が誰か知らない。関心もなく、期待もしない。何週間かぶりで呼吸をした。
私はすきなひとたちが笑っていなかったら気になるけれど、笑っていれば気にならない。私がいることで笑ってくれたら嬉しいけれど、私がいなくても笑ってくれたらもっと嬉しい。そういうすきもあるのだと、わかってほしいと願うのは、わがままなことなのかな。
スポンサーサイト