2007/09/23 (Sun) the vector
私の写真は、世界で起こっていることを、その場に行く機会のないひとにも見られるようにするための媒体です。展示を見てくださった方が、展示を見る前とまったく同じひとではなくなっていることを願っています。
−セバスチャン・サルガド 2000年3月29日、ニューヨーク
報道写真はあくまでも事実を報じるためのツールで、アートではないのだとおもっていました。その思い込みを覆す写真家に出会いました。セバスチャン・サルガドです。彼が1985年に撮ったシリーズ〈サヘル〉の一枚に、白い砂漠を背景に、枯れ木と少年が立っている写真があります。悲惨で空虚です。それなのに、すごく美しい。枯れ木が墨のストロークのようで、少年が鉄のようで、ほんとうに美しい。こんな写真を美しいと感じてはいけない、悲しみや憤りを感じなくてはいけないと自分に言い聞かせても、やっぱり美しいのです。生きる場所を追われた女性の足下にのびるベールの長さにも、難民キャンブに射す光にも、爆発の火花にさえ、映画のスチール写真のような完成された美しさがあります。美しさに捕えられて目を背けることができず、そのぶん悲しみの残像を放せなくなって、ちょっとしんどい思いをしました。サルガドだけの展示じゃなくてよかった。
私が行った東京都立写真美術館「キュレーターズ・チョイス」は10月8日まで。もっと心地よい写真を見たい方には、10月21日までの「鈴木理策:熊野、雪、桜」をおすすめします。
写真は彼岸花。炎じたて。

−セバスチャン・サルガド 2000年3月29日、ニューヨーク
報道写真はあくまでも事実を報じるためのツールで、アートではないのだとおもっていました。その思い込みを覆す写真家に出会いました。セバスチャン・サルガドです。彼が1985年に撮ったシリーズ〈サヘル〉の一枚に、白い砂漠を背景に、枯れ木と少年が立っている写真があります。悲惨で空虚です。それなのに、すごく美しい。枯れ木が墨のストロークのようで、少年が鉄のようで、ほんとうに美しい。こんな写真を美しいと感じてはいけない、悲しみや憤りを感じなくてはいけないと自分に言い聞かせても、やっぱり美しいのです。生きる場所を追われた女性の足下にのびるベールの長さにも、難民キャンブに射す光にも、爆発の火花にさえ、映画のスチール写真のような完成された美しさがあります。美しさに捕えられて目を背けることができず、そのぶん悲しみの残像を放せなくなって、ちょっとしんどい思いをしました。サルガドだけの展示じゃなくてよかった。
私が行った東京都立写真美術館「キュレーターズ・チョイス」は10月8日まで。もっと心地よい写真を見たい方には、10月21日までの「鈴木理策:熊野、雪、桜」をおすすめします。
写真は彼岸花。炎じたて。

comment
はなびさん、お久しぶりです。
個人には、悲劇は、美しさに変えて、記憶されるべきものかもしれません。その役を果たすのが、芸術ではないかと思います。
トラックバックしました。このエントリは重たい課題を持っていました。
個人には、悲劇は、美しさに変えて、記憶されるべきものかもしれません。その役を果たすのが、芸術ではないかと思います。
トラックバックしました。このエントリは重たい課題を持っていました。
ほんと炎だ。そう思った。
>Mさん
コメント&トラックバックありがとうございます。
子どもが涙を流している姿を写真に撮ったら
たいてい悲しい写真が撮れるけれど(峠三吉の詩のように)、
サルガドは自分が涙に溺れるような撮り方をしていないように見えます。
たぶん、泣きながらでは、伝えたいものが伝わらないから。
涙声が聞き取りづらいように。
悲しいものは遠ざけられ、忘れられがちですが、
美しいものは目をひき、記憶に残ります。
それが悲しいものであっても。
サルガドの写真が美しいことに意味があるとしたら
(悲劇を美しさに変える意義があるとしたら)、
泣きながら撮っているわけでも、泣かせるために撮っているわけでもなく、
伝え、記憶され、ものごとのありかたを変えるために
美しさを”使っている”ところにあるのではないかとおもいます。
それはとんでもない、すごいことですが、
たとえば毎日よむ新聞がギリシャ悲劇みたいになったら、
私は読むことができないとおもいます。いろんな意味で。
>iruguさん
炎っぽいでしょ(笑)。
きっちり花っぽく撮ったのより、彼岸花らしいような気がしています。
コメント&トラックバックありがとうございます。
子どもが涙を流している姿を写真に撮ったら
たいてい悲しい写真が撮れるけれど(峠三吉の詩のように)、
サルガドは自分が涙に溺れるような撮り方をしていないように見えます。
たぶん、泣きながらでは、伝えたいものが伝わらないから。
涙声が聞き取りづらいように。
悲しいものは遠ざけられ、忘れられがちですが、
美しいものは目をひき、記憶に残ります。
それが悲しいものであっても。
サルガドの写真が美しいことに意味があるとしたら
(悲劇を美しさに変える意義があるとしたら)、
泣きながら撮っているわけでも、泣かせるために撮っているわけでもなく、
伝え、記憶され、ものごとのありかたを変えるために
美しさを”使っている”ところにあるのではないかとおもいます。
それはとんでもない、すごいことですが、
たとえば毎日よむ新聞がギリシャ悲劇みたいになったら、
私は読むことができないとおもいます。いろんな意味で。
>iruguさん
炎っぽいでしょ(笑)。
きっちり花っぽく撮ったのより、彼岸花らしいような気がしています。
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価値は意味を超えられるか
彼が1985年に撮ったシリーズ〈サヘル〉の一枚に、白い砂漠を背景に、枯れ木と少年が立っている写真がありま //坂のある非風景 2007/10/06 22:40
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