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2010/01/30 (Sat) あわせ鏡
写真展「あわせ鏡」にいってきました。ドコモビルが遠くに見える四谷二丁目のギャラリー。しかくいお部屋の4つの壁に、マスナリジュンさん、黒耳 堂さん、(ク)ニヒトさん、朝弘佳央理さんの写真が、ひびきあうように展示されていました。以下、作家さん別に簡単にメモ。(的外れだったらごめんなさい)

マスナリジュンさん
その日、そのときに、たまたま新宿を通りがかったひとたちのポートレイト作品。初対面だとは信じられないくらい、みんな、そのひとらしく撮られている。アートは悲しくややこしく不愉快なほうが高尚だと考えられがち。でも、命を敬意をもって撮ることのほうが、ほんとうは難しいのだとおもう。ひとが生きている一瞬をうつす鏡。それは撮影者をうつす鏡でもあり、みるひとをうつす鏡。

黒耳 堂さん
展示作品に写っている植物たちを「野良植物」と、黒耳さんは仰った。彼らは石でいえばエメラルドやサファイアではない。それでも写真の中の彼らは力強く、美しく、生命力を感じさせて、うっかりしていたら翡翠や瑪瑙になりそう。街で生きている植物たちの一瞬をうつす鏡。

(ク)ニヒトさん
本を読む奥さまを撮った連作。『これでよろしくて?』というタイトルの本を読む奥さまの写真は「”これでどうだ”くらいのきもちで撮ったんですよ」と (ク)ニヒトさんはお話してくださったけれど、写真の前にいると、(ク)ニヒトさんの奥さまの声が聞こえるー「これでよろしくて?」。(ク)ニヒトさんが投げかけ、奥さまが投げ返し、それがカメラの記憶へ。そしてその投げかけは、みているひとへも。

朝弘 佳央理さん
他の3人が比較的おおきな作品を展示されている中、おおきい写真、ちいさめの写真を交えての展示。配置は色や題材ではなく、感触で決めたそう。離れてみると楽譜のようで音がきこえた。ピアノか、オルガンか、笙のような。記憶のように重なり合い、音楽のように反響し、共鳴する合わせ鏡。

□□□

今回の展示に足を運んだひとつのきっかけは、昨年6月、ブログ『坂のある非風景』の「妥協なき苦痛、妥協の苦痛、苦痛なき妥協」という記事。この中で「hanabi daysとアマヤドリはそっくりである。双子でなければ姉妹に違いない」と並んで紹介されていた”双子”さんが、朝弘さんです。お会いしたこともお話したこともない方、”双子”とみていただくのが畏れ多いような方でしたが、きょうお話したらふしぎに懐かしくて、どきどきしました。すぐに帰りの電車に乗れなかったくらい。

もうひとつのきっかけは、(ク)ニヒトさん。flickrで公開されている毛糸球やスツールの穏やかな写真がすきで、何年も前からコンタクト登録をさせていただいていました。朝弘さんのブログ「アマヤドリ」から写真展へのリンクを辿り、(ク)ニヒトさんを見つけたとき、つながっているなぁ、とおもいました。

そもそもこの写真展も、マスナリジュンさんがTwitterで呼びかけて実現したものだそうです。あわせ鏡にうつる無限像のように、ひとやものや、きもちがつながって、広がっていく感覚。…いきているって、こういうことなのかもしれない、ね。写真は私なりの、野良植物。

cat's garden, winter

2009/12/12 (Sat) 美しいという現実
サルガドは写真の構図にあまりにも捉われすぎている。彼は苦しみに歪む被写体に”優美さ”や”美しさ”を見出そうとする。写真の中で悲劇が美化されていることは、究極的には、私たちから写真に写っているものを体験する積極性を奪っていく。何かに美的要素を付加するということはそれを目撃する人の感情を麻痺させる最も手早い方法なのだ。美は賞賛を引き起こしても、行動の引き金にはならない。
―イングリッド・シスキー/ニューヨーカー誌(1991)


1年以上前、1枚の写真に衝撃的な出会いをしました。

salgado
湖があったファギビンヌ湖地区。
食糧と避難所を求めて町外れまで砂漠を横断する遊牧民たち。マリ、1985


住む場所を追われて、針金のような細い脚で歩く子どもたち。雪のように白い画面に、墨のストロークのように伸びるヴェール。それは、他の報道写真と同じくらい凄惨であると同時に、その凄惨さを一瞬忘れて見とれてしまうほど美しい写真でした。

その印象は、最終日のきょう、ようやく観にいくことができた、セバスチャン・サルガドの「アフリカ」展でも変わりませんでした。飢餓。旱魃。難民。病気。埋葬されようとしている子どもの死体。写し取られているものは決して心地よいものではないはずなのに、美しくて美しくて、目をそらすことができないのです。

サルガドの写真の中では、地雷で片足を吹き飛ばされた女性が明るく笑っていました。大量虐殺をして投獄されている男性がふんわりとほほえんでいました。それは私たちが日本で想像する”かわいそうな”地雷の被害者や”冷酷な”大量虐殺者の表情とはかけ離れているけれど、彼女や彼というひとの、生きている人間の姿には違いないと感じられるものでした。

人間はたぶん、100%かわいそうになったりはしない。自然はたぶん、100%醜くなったりはしない。サルガドの写真を現実の美化だというなら、寄付を募るための“かわいそうな”写真は、奪われても歪められても数%残された美しさを無視した“醜化”ではないのかな。

きょう、展覧会の会場には長い長い行列ができていました。写真の前で足を止めて「子どもの足が棒みたいだね」「こんなに難民がいるんだね」と隣にいるひとと話しているひとたちも、たくさんいました。もしサルガドの写真が美しくなく、ただ痛々しく悲惨なものだったとしたら、こんなにたくさんの人が来て、観て、目を止めて、ことばにすることは、あったのかな・・・。

私は、どんな過酷な状況の中でも、生きようとする人間の尊厳を撮っているのだ。
―セバスチャン・サルガド

2009/08/22 (Sat) いま、ここ
少し前に撮った写真を見ると、撮ったときに感じた以上に
そのときのこころが写っていて、驚くことがあります。
安心していたときには穏やかな写真。
かなしいときには僅かな光を探すような写真。

1/250秒なんていう、ほんの一瞬にもそのときのこころが写ってしまうのなら、
3分、5分、10分の音楽を奏でたら、どれだけのこころが見えてしまうのだろう?

きょう、中学生のころからのともだちのヴァイオリンを聴きました。
おおきなホールで聴くオーケストラの一部としてではなく、
赤坂の地下のちいさなレストランでのヴァイオリンとピアノだけのライブで。

ふだんの彼女の話し方や雰囲気から
たんぽぽの綿毛のようなふんわりした演奏を思い浮かべていたのですが、
おひさまの下で色づいたオレンジみたいに瑞々しくてカラフルな演奏でした。

彼女が今より10歳若くても、10歳年上でも、たぶん、違う音に聴こえた。
私が今より10歳若くても、10歳年上でも、たぶん、違う音に聴こえた。

それがいいことか悪いことかは確かめようがないけれど、
聴いていて、いまの彼女の演奏を、いまの私が聴けてよかったな、と感じました。
そういう音をつくれるひとは素敵だとおもうよ。また聴きに行くね、ありがとう。

sarusuberi

2009/08/09 (Sun) 今月も美術館
時間ができたら美術館へ行こう、が習慣になってきています。しめしめ。
アクセスしやすいので恵比寿、六本木に行きがちですが、年内に上野にも行きたいな。

ジョルジュ・ビゴー展―碧眼の浮世絵師が斬る明治―(東京都写真美術館)
写真美術館では珍しい、ほとんど写真のない展覧会。フランス人の挿絵画家、ジョルジュ・ビゴー(1860-1927)が描いた、文明開化の時代の日本の絵が中心です。彼の描く「日本」は、混浴する家族であったり、美しい着物を脱ぎ捨てて慣れないドレスを着る女性であったり、どこか滑稽で、哀しい。だから彼は子どもたちには石を投げられ、大人たちには煙たがられ、官憲にまで目をつけられてしまったといいます。

彼が日本を皮肉りからかっていたのか、愛おしんでいたのかは、絵を見るだけではわからないけれど、ひとが何かを愛おしいとおもうのは、美しさも醜さも見たときじゃないのかな、とおもいます。ただきれいな美女には憧れるだけだけれど、その美女からうっかり鼻毛が出ていたら愛せそうな気がする。そういう意味では、鼻毛美女の多い展覧会かもしれません。

8月23日まで開催ですが、これから観にいかれる方は、キャプションに気をとられすぎて、絵を見忘れないように気をつけてくださいね。キャプション、お話仕立てになっていたりして、おもしろいので。


旅―異郷へ 写真家たちのセンチメンタル・ジャーニー(東京都写真美術館)
コレクション展「旅」の第2部。「東方へ 19世紀写真の旅」は欧米のフォトグラファーの東方見聞録といった風味の展示でしたが、今回は日本のフォトグラファーが日本を撮っています。写っているのは、どれも30、40年前の景色。私の記憶には残っていない風景なのですが、「昔」というには近く、日本のような、外国のような、どこかで見たような、見たことがないような、たった40年前のような、40年も前のような、何だか妙な距離感と生々しさのある写真でした。その時代を知っている、私の親世代がみたら、きっと全然印象が違うはず。目が借りたい!「旅」第3部は「日本人の写真家が見つめた異郷」だそうです。それもたのしみです。

きょうの画像は、田んぼの稲…。
何かと文字数の多いhanabi daysですが、少しでも目が休まりますように!
forest

2009/07/11 (Sat) 今月の美術館
2ヶ月に1回は美術館計画、細々と進行中です。東京都写真美術館のチケットをいただいたので、最終日の閉館1時間前にすべりこんで見てきました。

■プレス・カメラマン・ストーリー
昭和の戦前・戦中・戦後の一時期に、朝日新聞の花形プレス・カメラマンとして活躍した影山光洋・大束元・吉岡専造・船山克・秋元啓一の5人を中心とした作品展。何年か前に、知り合いのフォトジャーナリストが、写真のミッションは「伝えること」であり、「何かが起こったときにそこにいて」、「人、または人が興味を持つことを撮ること」だと教えてくれたことがあります。今回の展示にも、政治家の写真やベトナム戦争の写真のような、いかにもなプレス写真がたくさん展示されていたけれど、いちばん記憶に残ったのは、影山光洋氏がわずか5歳でなくなった自分の子どもを撮影した「芋っ子ヨッチャンの一生」でした。

「ヨッチャン」が生まれ、生きて、大きなお芋を抱えて微笑んだというのは、朝日新聞にはきっと載らなかっただろうけれど、その家族にとっては記録すべき「事件」であり、他の誰かに伝えずにはいられないニュースだったのだろうとおもいます。「事件」、「記録」、「伝える」って、どういうことなんだろう?


■旅する写真~第1部 東方へ 19世紀写真術の旅
「旅」を扱った3部構成の写真展の第1部。遠い国や街の珍しい景色を故郷のひとに見せる、というのは、何というか、犬が珍しいニオイの砂をわざわざからだにくっつけて巣に帰ってくるような、本能なのでしょうね。この展示では、珍しくもキレイな砂粒が次から次へと出てきてきます。私が特に惹かれたのは、カメラや写真の印刷技術がまだ確立されていない頃のヨーロッパやアジアの街の写真と、それをもとに描き起こされた版画。建築物のデザイン性が高く、街並に「余計なもの」が見当たらなくて、いまの高機能なカメラで撮った絵葉書よりも数倍美しいんです。とてもそんな景色があったのがほんとうとはおもえないくらい。

幕末の日本も、私が知っている日本と同じ国とはおもえない景色でした。山があって、川があって、海があって、樹が生えていて、どのひとも(たぶん)小さなからだと、すっきりとしたアーモンド型の目で、まっすぐにカメラを見ている。オズの国に迷い込んでしまったようで、このお店の看板には何が書いてあるんだろうと近寄って眺めていたら、知らないひとに「これ、お茶づけって書いてあるんですよね。その隣のこのお店は何でしょうね」と話しかけられました。日本語なのに。たった100年で、異国になっちゃうんですね。写真好き、アート好きなひとだけではなく、旅や異国(?)文化に興味のある方にもたのしめる展示だとおもいます。

下の写真は、トフィーのひるね。新聞には載らなくても、私にとってはすごく意味のある記録。


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はなび

Author:はなび
犬、紅茶、写真、美術館、お風呂、本、日本語がだいすき。2006年3月から、EOS Kiss DNと一緒にたのしくお散歩をしています。文章と写真は関係がないことが多いです。写真だけをまとめてご覧になりたい方は、hanabi days on flickrへもどうぞ。

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